ばいばい、とクラスメイトに手を振った。
それに応えるよう皆も笑顔で「また明日」と手を振り返して、それぞれの家に向かって歩いていく後ろ姿を眺めた。
――それが私の日常で、優しい両親と仲の良い友達に囲まれた何不自由ない恵まれた環境。自分を取り巻く全てに何の疑いもなく、疑うことすら思いつかないほど幸せに過ごしていた日のこと。


 いつもより少し下校が遅れてしまい、陽がだいぶ傾いている。速足に車を待たせてある路上パーキングへと向かう。今日は教室で小さな事件が起きた。私にとっては決して小さくはないが、学校などではどこにでもみられるようなクラス内でのいじめを耳にしたのだ。もちろん知ったからには野放しにできるほど薄情ではないし、正義感を奮い立たせ、いじめをやめるよう説得した。いじめていた本人達は私の言葉に焦ったように「ごめんね」を繰り返した。私じゃなくてその子に謝るべきでしょう、と諭せば「それもそうだね」と苦笑する。心根は優しい子たちばかりだからきっとどこかで罪悪感を感じていたのだろう。誰か止めてくれる人を心の奥底で待っていたのかもしれない。でも、これでみんな仲直り。そうしたらみんなで一緒に遊ぶことにしよう。


 そう楽しい明日の予定を考えながら角に差しかかると、そこに1人の女の人がいた。小さな買い物袋を提げて細い路地を行ったり来たりしては立ち止まり、また同じ場所に戻ってその繰り返している。見るからに不審なその人を普段なら見過ごしていただろうが、私は事件が解決した達成感で興奮していたのだ。それからその女の人が悪そうな人には見えなかったこと、どうにも困っている様子だという理由だけで声を掛けた。困っている人を助けたい。今日はそういう気分だった。




「お姉ちゃん、そこで何をやってるの」
「え……あ、あの。ちょっと来た道がよく分からなくなってしまいまして」




「近道しようと横道に逸れたのがいけなかったのでしょうかねえ」と周囲を見渡しているが何の解決にもなっていない。大人でも迷子になるのね、と自分よりずっと大人なのにどうにも幼く感じてしまうのが面白くて、もう少し話を聞いてみることにした。




「お家は?」
「えっと……×××、の近く」




たどたどしく答える姿は年上の女性というより、もはや迷子の子供そのもの。気付かれないよういたずらに小さく鼻でくすりと笑う。
 小学生の土地勘でもそこがここからだいぶ離れていることがすぐに分かった。しかし、お姉さんが手にしているお店の袋からしてもまるで方向が違う。頭の中の地図で現在地を頂点にして線を結ぶと大きな二等辺三角形ができあがった。




「すごい遠回り……」
「そうなのですか? 私まだこの辺りの地理がよく分からなくて探検していたのですが……」
「帰り道が分からなくなっちゃったのね」
「……そのよう、ですね」




困ったように笑うお姉さんはとても綺麗だと思ったが、夕陽の光彩と哀愁が相まってその瞳が濡れているように見える。実際そんなことはないのだが、いじめられていた女の子が流していた涙を思い出して益々見捨てることが出来なくなっていた。




「お家の人はいないの?」
「うーん……まだお仕事中だと思うので、それはちょっと。それに」
「それに?」




突然言葉を区切って恥じらうようにもじもじと小さな声で「それに、迷子だなんて恥ずかしいじゃないですか」と誰に言うでもない呟きが聞こえた。
 一瞬呆気に取られたてぱちりと瞬きをする。でもすぐ正直に自分を迷子だと認めたのだと分かり、それがまた可笑しくて結局最後まで堪え切れず噴き出してしまった。



「あ、え? な、なんで笑うんですか」
「あはは!……ごめんなさいっ!でも、でもね!」




笑いを収めようにも自分ではどうすることもできない。なおも笑い続ける私に右往左往するお姉さんがまた可笑しくて声を上げて笑っていると、視界に見慣れた姿が入ってきた。私の笑い声に気付いて車から降りてきたらしい赤林だった。




「あらー。お嬢の楽しそうな声が聞こえると思ったらお友達かい?」
「赤林のおじさん!」
「……え?」




 とにかく今はこの珍事を誰かに話したくて仕方がなかった。込み上げる笑いを呑みこんで早口に事情を話すと「おや」とか「ありゃりゃ」とちゃんと聞いてるのか分からない合いの手を入れて首を縦に振る。サングラスの奥の瞳が真っすぐに困惑している女に向かっていく。それが何を意味しているのか年端もいかない小学生には分からなかったが、当人からすれば値踏みする視線そのもの。赤林は悪意はないと判断したのか「じゃ、お家までお送りいたしましょう」と快活に笑った。




「お姉ちゃん、やったね!」
「え?ええ?!いやいやいやいや!さすがに悪いですから大丈夫ですから!!」
「そんな遠慮するもんじゃないよ。お嬢さんが別嬪だからって別にこのまま攫っちゃおうなんて考えてないから」




本気とも冗談とも取れないようなことをさらりと言う赤林にひくりと女の顔が引きつる。




「それに、ほら。ここから歩いて帰ったら夕飯の支度に間に合わないんじゃない?その袋は今日のおかずなんじゃないの?」
「まあ……そうなのですけど……」




「ほらほら早く!」と私がお姉ちゃんの手を半ば引きずるようにして先導する。
意気揚々と歩き出し、そこではたとあることに気付いた。




「そういえば、お姉ちゃんの名前聞いてなかったね。私は茜。粟楠茜っていうの」
「私は……といいます。よろしくお願いしますね、茜さん」




いつの間にか並んで歩いていた私たちは、互いに手を握り返して長いこと待たせていた車へと向かった。
まるで本当の姉ができたように思えてこれっきりの出会いで終わらせたくない。動き出した車内で、買い与えてもらったばかりの携帯電話で連絡先を交換した。いつでも連絡してくださいねと微笑むお姉ちゃんが、いつか本当に茜のお姉ちゃんになってくれることを願いながら携帯を閉じた。














ポストロックガール
20100529












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