ただの寝返り、というわけではないように思う。
何度も繰り返されるそれはどうにも落ち着きがなくて、布団の中でまだが起きているのだろうとすぐにわかった。いつも寝付きがいい彼女がこんなにも長い時間起きているのが珍しくて、つられて俺もなかなか寝付けない。




「眠れないのか?」
「……起こしちゃいましたか?」
「別にそういうわけじゃねえけどよ。なんかあったのか?」





電気を消しても薄いカーテン越しに街灯が部屋を青白く照らしている。ぼんやりとの背が見えて、そこからは躊躇いを孕んだ空気を感じた。思えば図書館へ迎えに行ったときからどこか様子がおかしい。じっと足元に迫る水溜りを見つめて何かを深く考えるような顔をしていて、俺が声を掛けるとすぐにそれは奥へと引っ込んでしまったが、そのときは若干残る苛つきと電話越しとはいえ怒鳴ってしまった罪悪感で原因は俺のせいだと思った。だが、どうも違うらしい。それでいて「なんでもないですよ」「大丈夫です」と笑うから本当にそうなんだってこっちは思ってしまう。――でも、そんなわけがねえだろ。と一緒に暮らすようになってひと月以上経つ。驚くぐらいすんなりと流れていく時間の中で俺はまだこいつが弱音を吐くところを見たことがなかった。俺なんかいつも愚痴ばかりで、まるで自分が弱いみたいじゃないか。




「図書館でちょっと……嫌なことがありまして」
「へえ。話してみろよ」
「いえ、ただそれだけですよ」




苦笑したのがなんとなく分かった。人の愚痴を聞く機会があまりない俺にはうまいアドバイスとか話をしてやれるとは思えなかったが、このままにはしておけないと思ったは事実。・・・放っておけば1人で解決しようとするだろう。今日だって傘がなければ買うとか迎えを呼ぶとかできただろうに、変なところで無駄遣いや人を頼ることを良しとしない。が日々の不満とか文句を溜めこみ続けているだろうことは容易に想像できる。




「お前はその『それだけ』のせいで寝不足になってるんだろ。それで明日寝坊して朝飯と弁当作り損ねたら、間接的に俺を餓死させるような出来事なわけだ」
「……飛躍的ですね」
「だからなんつうか。俺はいつも愚痴を聞いてもらってばっかだけど……の愚痴ぐらい俺が聞くからさ」




俺はこいつの事情なんてほとんど分かってないし、理屈でどうこういっても解決にならないならわざわざ考える必要もない。だけどそれでがいられるかといえばそんなはずはない。が毎日どんな気持ちで日々を過ごしていたかなんて最初から逃げ出していた俺に分かるわけがなかった。俺が言葉を発するごとにの背は少しずつ小さく丸まって、大きな掛け布団の中にすっぽりと収まって見えなくなってしまう。――それでも俺は話すのをやめない。と向き合って話がしたい、そう思った。




「なんでもいいからお前が思ってること、俺に教えてほしいんだよ」
「…………」
?」




布擦れに紛れてかすかに鼻を啜る音に飛び起きれば、は両手で顔を覆って泣いていた。ぽろぽろと指の隙間から涙が淡い光の中でとめどなく溢れていく。慌ててうつ伏せに小さく膝を畳んで丸まっていたの背をそっと撫でると、ひくりと肩を震わせる。




「悪い!なんか俺、泣かすようなこと」
「違う、違うんです……わたし、嬉しくて。わたしこんなに優しくしてもらってばかりなのに……自分のことばかりで。いつか、バチが当たります」
「バチってお前な」




ゆっくりと上体を起こしたはふるふると首を振って濡れた瞳のまま、ふわりと笑う。
それは初めて会った日と同じ、月の下で咲く花のような頬笑みで――。




「静雄さんはやっぱり優しいです」




一瞬、すべてが停止したような感覚がした。
自分が今なんて言われたのか理解が追いつかなくてを見るが、変わらない笑みがあるだけでそれ以上何も言わない。俺が、優しい? 自分でも俺という存在からかけ離れたものだと思える単語をさらりと言ってのけるこいつが恥ずかしいような、でもなんか悪くないような気持ちになる。




「なんだよ。その≪やっぱり≫って」
「元々お優しい方だと思っていましたが、今再認識させられました!」
「……読んだから知ってる、ってヤツか」
「それだけじゃないですよ。『ここ』にはわたしの知らない静雄さんたくさんいて、その静雄さんはとても優しくて……。本に書いてあることがすべてじゃないんです。他の人にスポットが当てられているときでも周りにいる人の時間は確実に存在して、そこを知ることはわたしがいた『現実』じゃ出来ないんです。だからわたしは、……あ」




突然言葉を詰まらせたは口元を手で覆った。何事か分からない俺は名を呼び掛けるが、なにか思い当たったような彼女を待つことしか出来ない。




「静雄さん分かりました……!」
「あ?どうしたんだよ」
「えへへ」




締りのない顔で笑うの頭をぽんと撫でると自分と同じシャンプーの香りがした。泣いたり笑ったりで忙しいこいつを宥めるのは意外と簡単らしい。2,3回髪を梳いてやるとすぐに大人しくなって「これ、好きです」と小さな声が聞こえた。




「わたし、静雄さんとお話できて本当によかったです」
「こら。勝手に解決させんな」
「あ。えっと……つまり静雄さんがお優しいことを知ることができたのは、こうして物語と関係ないところでお話できたからなんですよ」
「……なんだ?今の話全部繋がってんのか?」
「はい。それでですね、えっと。だからわたしは関係なくていいんです。『関係ない』ところなら、きっと私は自由なんですよ」




それからそれぞれの布団に戻って、横になったまま話をした。俺は子供の頃のことや今までに就いた仕事のこと。は元々どういう生活をしていたのか。そして、ブクロに来て最初に会ったという悪魔のことも話してくれた。話したくなかったんじゃないかと聞けば「関係ないからいいんですよ」と鼻を鳴らすはもう完全に悩みを断ち切ったらしい。相変わらず事情はよく理解できなかったが、こいつかこうして笑ってくれてるならそれでいい。


――気付けば雨は止んでいた。
今なら雲間から月が見えたかもしれないがそれはもういい。隣から聞こえる小さな寝息を耳にし、俺は目を閉じる。手のひらには自然と彼女に触れてた感覚がまだ残っていた。














シャボンガール
20100612












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