「ただいま」





 つい1ヶ月前までは言う必要のなかった言葉がさらりと出た。
日が短くなるにつれ少しずつ帰宅時間が早くなっていることに静雄は気付いていたが、それについて上司に何か言うつもりもない。暗くなる前に家に帰らなければに心配されるというわけでもないだろう。むしろ心配しているのはこちらのほうだったのだから願ったり叶ったりだった。いつもどおり明かりの点いた自宅は程よい暖かさで静雄を包んだ。ただ一つ違ったのは返事がないこと。鍵を開ければその音で玄関にまで待ちぼうけの子犬のように迎えにきてくれる。今日はそれがないことに少し訝しみつつ部屋に足を進めると、その答えがすぐそこにあった。テレビやパソコンなどの娯楽はなく、静寂に満ちた場所に小さな寝息だけが響いている。読んでいる途中で眠りこけてしまったのか広げられた本を枕にしてローテーブルにうつ伏せていた。
 極力足音を立てずに近づいてそっと膝を着く。あまりにも珍しい姿にまじまじと寝顔を観察してしまう。大きな瞳が今は伏せられていて、長いまつげがそれを縁取って影をつくっていた。頬に掛る細くしなやかな黒髪が気になって慎重にそこへ触れてみる。今まで触れたことのない新しい感覚に緊張しつつ耳に掛けてやると、違和感に気付いたのかがゆっくりと目を覚ました。





「悪い。起こしたか」
「……ん。んー……」





言葉にならない呻き声を上げローテーブルに顔を埋めて3秒。
勢いよく顔を上げ静雄の存在を確認すると、現状に気付いたのかわたわたと慌てだした。





「え!静雄さん?!なんでもう」
「今日は少し早かったからな。……ただいま」
「あ……おかえりなさい」





ふわりとはにかんで答えるに思わず自分にも笑みが浮かぶ。甘酸っぱい空気が流れた途端、が弾かれたように顔を上げてそんな場合じゃないと立ち上がった。






「どうしましょう!まだ夕飯の支度が出来てません!」
「あー。別に焦ることじゃねえよ。……そうだな。せっかくだからたまには外で食わねえか?」
「外、ですか?」
「いや別にお前の飯が嫌だってわけじゃねえんだが、その、なんだ……たまにはお前にうまいものでも食わしてやりてえと思ってよ」





妙な気恥かしさに目線を逸らして返事を待つ。はぱちりと瞬きをして不思議なものを見るような顔をしていたが、すぐに微笑んで頷いた。それを視界の端で確認して、静雄は外出するためにクローゼットを開いた。





♂♀





「ここが……噂のロシア寿司ですね……!」
「そんな喜んでくれるならもっと早く連れてくれば良かったな」





外食といってもそんな高級な店に連れていけるわけではない。近場で物によっては贅沢な料理を提供してくれる店といえばここ――ロシア寿司しか静雄の頭に浮かぶところはなかった。そして実際着いてみればはこれまでにない程に感嘆の声を上げ両目をきらめかせている。だが店内はあいにく満席で、日を改めるかと話していれば相席でよければ、と個室に通された。





「オー!シズーオ!まかさの女連れネ。これはナニカの前触れダヨ!いつか池袋ニ銀シャリノ大雨が起コルヨ!」
「いつも以上に意味わかんねえなお前は」
「イイヨー。今日はサービスするヨー!お祝ゴトはみんなでやるニ限るヨー!」
「祝いって、なにが……あ?」





店内でも一番奥にある個室の襖を開けると、そこには顔馴染みの複数の男女がいた。彼らに相席の件は伝わっていなかったのか突然の闖入者に驚いている様子だったが数秒の間が空く。しかし、すぐに相手が知り合いと分かればそれぞれに歓迎と困惑の声を上げた。





「なんだ静雄じゃねえか」
「一瞬誰かと思ったー!てか誰そのかわいこちゃん!」
「ままままさか彼女連れっすか!静雄さんリア充だったんすか!?」
「へー。驚いたなあ」
「門田たちモ。お祝スルヨー。今日ハ特製寿司ガ全部静雄の奢りダヨー」
「お前ら適当なこと言ってんじゃねえ!!」
「し静雄さん落ち付いてっ」





今にも店ごと崩壊させそうだった静雄を宥めてようやく席につく。門田、狩沢、遊馬崎、渡草の4人はにとってこれが初めての対面というわけではなかった。最初にこの池袋に飛ばされてきた際に遠目からではあるが確かにその姿を確認している。ただこうして間近で見る面々はまさしく自分が知っているワゴン組であって、サイモンをみたとき同様、感動と緊張に体が震えていた。だが唯一の助けの綱である静雄はテーブル向かいで門田と何やら話をしていてこちらの様子に気付いていない。は今、狩沢と遊馬崎の2人に板挟みにされていた。





「やだタンってば合法ロリなの!?小萌先生なの!?」
「学園都市の科学技術により生み出された神秘の生き物っすね!」
「あ、え。いや、えっと……」
「ふっふっふ……こんなこともあろうかと!」
「ま、まさか狩沢さん!?」
「え」





――ここが個室で本当によかった。
心からそう思うの前には、狩沢私物の衣装が高々と掲げられていた。白いブラウスに黒のミニスカートとセットになったガーターベルト付きニーソックス。ドレープのついたカチューシャ、フリルとレースが施された白いエプロン。誰がどうみてもそれはメイド服と呼ばれるものがそこにあった。どこから取り出したのか、それを何に使うつもりなのかと、とめどなく湧きおこる疑問に茫然としていると勢いよく立ちあがった遊馬崎の膝が食卓にぶつかり大きく揺れた。





「邪道!邪道っス!!メイドは清楚可憐のエマ丈ロングスカート以外断じて認めないっス!!」
「それもいいけどミニ丈のロマンは不変だよ!じゃないとせっかくのガーターが見えないじゃん」
「いやいやいや。見えずともそこにあるということが心を満たしてくれるんスよ」
「やだ、ゆまっち名言!妄想の余地を残すという意味じゃロングも悪くないのよねー」
「あ、あの……」


「じゃ。お着替えしよっか!」
「はい?」





 満面の笑みを浮かべる狩沢に手を引かれなすがままに店の更に奥にある座敷へと連れて行かれる。助けを求めようとは振り返るが可哀相なものを見送るような門田と、状況をまったく把握できず片膝立てる静雄を宥める遊馬崎。我関せずの渡草が茶を啜るだけで何の解決にもならなかった。


――数十分後。
事情を説明された静雄は気が気ではなかった。……別にが酷い目に合わされているわけではない。ただ服を着替えるだけ。そう聞いたがなかなか戻ってこないことに焦りが生じてくる。だんだん苛立ちにもにた感覚が沸き起こってきて、外食なんてしなきゃよかったなんて後悔の念さえ覚えてきた。と狩沢が出ていった襖をじっと睨んでいると、居た堪れなくなった門田が声を掛けた。





「そういきり立たなくても戻ってくるさ。それより静雄」
「あぁ?」
「お前が普通の服を着てるのを見るの久しぶりだな」
「そう、か……?」





静雄は自身のトレードマークともいえるバーテンダー服ではなく、フルジップパーカーにデニムパンツとペコスブーツ。普段掛けているサングラスも今は家に置いてきている。最初に門田たちが静雄を見た時、変な間が空いたのはこれが原因だった。池袋最強としてではなく静雄自身を知っている人間でなければおおよそ気付かないような様相に戸惑ったというのが本音である。これに対して静雄は特に気にする様子もなく口を開こうとしたところで、再び襖が開け放たれた。














夜デート その一
20101127












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