「笑ってる」
本から顔を上げると昼寝していたはずの静雄さんと目があった。
横になったまま見上げてくる瞳はまどろんでいて、まだ夢見心地の最中にあるのだろう。私は壁に寄りかかったまま開いた本で口元を隠す。きっと読むのに夢中になって頬が緩んでいたのを見られていたのだ。なんて恥ずかしい。いつからそうしていたのか自身では分からない分、余計に性質が悪い。しかし、読書はいつだって楽しいものだ。物語が加速していくにつれ、私の心も逸っていく。筆舌に尽くしがたいこの閉塞的な喜びは、傍から見たら奇妙なものに映ることは間違いない。あろうことか対象は本だ。もしかして私は外でもそうしていたのではなかろうか。徐々に頬が朱色に染まっていく熱を肌で感じた。
「楽しいか」
「……え?」
「本」
言いながら大きなあくびをひとつ噛みころした。緩慢な動作で体を起こすと、のそのそと隣に移動してきて私の頭上に静雄さんの頬が乗る。寝起きの体温があたたかく心地よくて、こちらまで眠くなってしまいそうだ。横から伸びてきた指が膝の上にあった本のページをめくる。
「こんな文字ばっかのやつ読んでて眠くならねえのか」
「そう、ですね。でも一度のめり込んでしまうと時間を忘れてしまいそうです」
「でもおれはねむい」
「それならまだ寝ていても構いませんよ」
小春日和と呼ぶにふさわしい朗らかな陽気が窓から差し込み眠気を促している。食後で膨れたお腹も相まって、久しぶりの休日は穏やかに過ぎていく。特別何かをするわけでもない。お互いを疑問に思うことなく、その自然体を受け入れていた。静雄さんは小さな子供のようにむずがって頬釣りをする。そのままずるずると体を滑らせていくのに合わせて本を避けると、私の伸ばした膝の上に頭が落ち付いた。あまり体重を掛けないよう気を使っているのか少ししか乗っていなくて、もっと上でも大丈夫ですよ、と声を掛けるが目を閉じてすっかり寝る支度に入っている。弛緩しきった表情はとても池袋最強と呼ばれる人には見えない。そのあどけなさに頬笑みを浮かべると、あんま見るな、と無造作に腕を伸ばす。
「こうして休日を過ごすのは初めてですね」
「ああ。俺も休みくれるとは思わなかった」
「今日ってなにかあるんですか」
「……俺の誕生日」
「え?」
驚きで膝が大きく揺れた。当の静雄さんは言うつもりのないことを言ってしまったようで、体ごとそっぽを向いてしまう。誕生日だなんて、ひとことも聞いていない。むしろ今までそういう個人のプロフィールについて詳しく聞いていなかったことに衝撃を受けた。私は今まで何をしていたのだろう。今朝はいつもより遅く起きて、ご飯を食べて、掃除をして、本を読んで。その間静雄さんがぼうっとしたり、横になっていたのはもしや不貞寝だったのではないか。≪読者≫だから知っていて当然だと思われていたのだとしたら、なんて期待はずれなことをしてしまったのだろう。慌てれば慌てるほど上手い言葉が出てこなくて、情けない声ばかりが漏れる。今から支度を始めれば夜には間に合う。とにかく買い物行ってケーキとお食事の材料と、何かプレゼントになるものを用意しなければ。私が動こうとしたのが分かったのか、静雄さんが声をあげる。
「別に祝ってもらいたかったわけじゃねえよ」
「で、でもせっかくのお誕生日なのですからお祝いしないと……!」
「いらねえ。動くな」
「せめてケーキとか……プレゼントも用意していませんでしたし……」
「なら、これがいい」
膝の上で寝がえりを打った静雄さんと目が合う。真下にある顔が少し照れたように視線を泳がせて、すぐに目を閉じてしまう。暗に、枕になれ、と言っているのだ。そんなことをプレゼントにしなくてもいくらでもしてあげられるというのに。額に掛った前髪をそっと左右に分けると眉間の皺がぐっと深くなった。あとにならないよう指先でそこをくすぐれば、うっとうしそうに払いのけられる。まるで子供をからかっているようだ。昔、弟たちにそうしたように優しく一定のリズムで胸のあたりをたたくと体中の筋肉が緩んでいくのが感じ取れた。今にも眠りの底に落ちてしまいそうな静雄さんがうっすらと目を開く。
「お前が笑ってる傍に居られたら、それで俺は十分だ」
「静雄さん……?」
「の傍なら、ずっと憧れてた≪静かな生活≫ってやつが送れる気がする」
「……っ!」
ケーキはまぁ、明日にでも作ってくれよ、と言い残して後は小さな寝息が続く。寝ぼけ交じりの声は聞き取りづらいのに、どういうわけかそこだけははっきりと聞き取れていた。静雄さんが言った言葉にどんな意味が含まれていたのかは分からないが、膝の上の重みと体温が鼓動を速めていく。これは本を読んでいる時の動悸とは違う。確かな熱がそこにはあって、自分の現実が本の中にあることを忘れそうになってしまう。改めて静雄さんの寝顔を眺めて、ひとつ言い忘れていたことを思い出した。
「静雄さん、お誕生日おめでとうございます」
ふっと頬が緩んだように見えたのは、私の都合のいい錯覚だったのかもしれない。
birthday cake
20110130
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