満月だった。
それもどんよりとした雲が辺りを囲んでいる。流れの早い雲間から漏れる光が真っすぐに下へ降りてきて、まるで月が溶けているようだ。とろりとした乳白色がアイスクリームのようで、甘いバニラの香りが鼻を掠めたような気がした。季節としては、まだ少し早い。だがコンビニに行けばいつでも口にできる。冷たい触感が口に広がるのを想像して、買い物かごに追加してしまえばよかったと後悔した。少し後ろを歩くの歩調はゆるやかで、つかず離れずの距離を保っている。雨の匂いが混じる風が両手に持つ買い物袋をばたばたと音を立てた。





「来週には梅雨も明けるそうですよ」





そういえば初めて彼女に遇った日もこんな夜だったように思う。あのときは雨よりも雪が降るような季節だったはずなのに、に出会ってからの時の流れは異様に早く感じる。とうに桜は散り、枝葉には緑の葉が目立つようになってきた。だからといって自分の生活に何らかの変化があったかといえば――そうでもない。相変わらず仕事と家の往復を繰り返すだけの日々で、自分の≪暴力≫に打ち勝つ気配も、のいう≪物語≫の始まりの予兆すら感じられない。春先にはダラーズの初集会があったが、それについて静雄は何も知らない。セルティの行動には驚かされたが、本人が何か満足しているようなのだからそれ以上深く追求もしていない。何かしがらみのようなものから解放された友人の姿に安心しつつも、本当は少し羨ましく思う。セルティに訪れた変化が≪物語≫なのだとしたら、実はもうすべて終わってしまっているのではないかと危惧するが、からは何も言ってこない。思えば――には変化があった。それは目に見えるほど大きなものではないし、今はもう静雄が知るの姿に戻っている。様子がおかしかったのは、先のダラーズ集会があった晩のこと。普段から携帯電話を頻繁に使っている様子はないし、ダラーズに所属しているようにも見えなかった。それなのにはその時、夜の60階通りにいたのだ。日が伸びるにつれて勤務時間はまた伸び始めていたが、あんな時間に彼女が外に出ていることなんてそうそうない。だからきっとあの日、あの場所で、≪物語≫が動くことを知っていたのだろう。そこで何を見ていたのかは知らない。ただ声を掛けたときには表情は暗く、どこか不穏な≪匂い≫がした。胸糞が悪くなるあの嫌な感じは――間違いなく臨也しかいない。問い質してみれば、やはり臨也といくらか話をしたようだった。思い出すだけで、ぴくり、とこめかみに青筋が浮かぶ。やり場のない怒りを鎮めようと大きく息を吸った。そのまま空を仰げば、雨雲に隠れて月の全貌は見えない。何か大事なものを奪われてしまったような気がした。





は……月に似てるな」
「月、ですか」





ずっと思っていたことだ。月に似てる。花に似てる。しゃぼん玉に似てる。様々なものにを連想させたが、一番合うのはやはり月だ。月の優しい光がに似合う。――甘い匂いがする。





「それなら静雄さんは太陽のようです」
「俺が?」
「はい。きらきらと眩しくて、あたたかくて、なくてはならない存在です」
「持ち上げても何も出ねえぞ」
「そ、そんなのじゃありません!」





眉間に皺を寄せて顔を真っ赤にする姿は本気でそう思っているようだった。その必死さに思わず面喰ってしまうが、同時に照れくさくもある。居心地の悪さに、ぽん、との頭を撫でていつの間にか止まっていた足を再び動かす。静雄が太陽で、が月。まるで対のように表現されて内心喜びが隠せなかった。だが、そう浮かれてばかりではいられないだろう。静雄も気付いているへの淡い思いはひとたび認めてしまえばとりとめもないものになってしまう。――を傷つけたくはない。それは過去のトラウマと相手を思いやる気持ちゆえの選択のつもりだが、一方で逃げているだけなのだろう。――俺が弱いから。自分自身に勝てる自信も、彼女を壊してしまわない自信もなかった。それならいっそこのまま昼と夜とを繰り返すように、つかず離れずで現状を維持したほうがいい。ふいに静雄の横を小さな影が追い越す。再び顔を出した満月を背に、は静雄の前にいた。手を伸ばしても、おそらく届かない。





「月は、太陽がいなければ光ることができないんですよ。この意味、分かりますか?」





満月が眩しい。
この輝きが太陽の力ならば、がこうして微笑んでいるのも、太陽がさせたことなのだろうか。己の熱で溶けてしまいそうな想いを押しこめながら、静雄の心は満ち溢れていった。





♂♀





「昼夜起源説っていうのは世界中色々あるけど日本書紀に描かれるそれはなんとも災難な話でね」





月の世界を司る月読命は太陽神である天照大神の使いとして、五穀を司る保食神の元を訪れる。それに大層喜んだ保食神はもてなしをしようと、己の口から様々な食物を出した。しかし、それを見た月読命は汚らわしく思い、いきなり斬りつけて殺してしまう。これにより天照大神の怒りを買い、昼と夜に別れることになったという。





「口から出すのも驚きだけどさ。殺しちゃうのもどうかと思うよねえ? アマテラスが怒るのも無理ない」





新宿を一望できる一室から臨也は空に浮かぶ月を見上げた。激しく流れる雨雲がその姿を覆って、朧月と呼ぶには不気味な陰影がこれからを予期しているようだ。ガラスに男の不敵な笑みが反射して映し出される。





「迷宮っていうのはさ、まっすぐな道のことをいうんだよ。まっすぐ軌道線上をずっと進んでいれば必ず同じところに戻ってきてしまうからね。太陽は月から逃げ、月は太陽を追い続ける。いつしかそれは逃げる者と追う者の区別がつかなくなってしまうほど途方もない迷路に迷い込んでしまった人たちのことをいうんだろうね」
「あんたもそのまままっすぐ進んで窓から飛び降りればいいわ」





波江は手を止めず、顔も上げぬまま思ったままを返す。そんな反応にも意に介するようすもなく臨也はPDAを取り出した。どこかに連絡を取ったあと、ディスプレイに人物の写真が浮かび上がる。――そこには図書館で本を読むの姿が映っていた。





「月は満ちたら欠けるものだからね。……そろそろ怠惰なかぐや姫をお迎えに上がるとしようか」





ざあ、ざあ、と。
降り出した雨の勢いは梅雨の終わりまで止まらない。
月も太陽もその雲がすべてを覆い尽くしてしまえばいい――そう嗤っているように。














溺れる朔夜
20110212












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