気がついたときにはもう遅かった。
街にはまだ糊が取れきれない浅黄色の制服をまとった学生たちが行き交い、溌剌とした若さが眩しい季節を迎えている。新年度を迎えた来良学園にはもう竜ヶ峰帝人、紀田正臣、園原杏里が入学していることだろう。そして物語は早々に始まりを告げ――異世界人の闖入を許したまま一つの物語が終了していた。すでにサンシャイン前にあった人だかりは消え、池袋の街の背景として溶けてしまっている。そして私もまた、通行人の1人としてそこに立ち竦むだけだった。あっという間の出来事だった。
「随分遅い登場だね」
現実から遠く離れていた意識を呼び返す声に僅かながら肩を落とす。最初から狙っていたような絶好のタイミングと、奇をてらうような物言いをする人間はこの世界で1人しか知らない。いつの間にか横に立っていた臨也は何気ない様子で優しく肩に触れる。以前図書館で出会ったときのように逃がすつもりはないと暗に言っているのだ。強張る体に気付かれたのか苦笑が浮かんでいる。
「てっきり何かしてくれるんだと思ってたのに。そういえばちゃんダラーズの会員になってなかったね。もしかしてすでに状況が動き出していることに気付かなかった? でも現にこうして現れたんだから今日ダラーズの集会が行われることは知っていたんだよね。セルティか誰かに聞いたのかな? まあ、なんにせよ俺はダラーズのリーダーとお近づきになれたし、新たな駒も手に入れた。序章としてなかなかな出来だと思うんだけど、君の知ってるシナリオとはどこか相違はあったかい? いや、ちゃんは今回何もしてなかったからこれがオリジナルどおりなのかな」
白々しさを隠さずにいるあたり私への当てつけなのだろう。返事の代わりに顔を逸らすと耳元に男の顔が近づいてくる。フレグランスのほのかな甘い香りに眩暈にも似た感覚に陥る。
「ねえ。どうして君が≪ここ≫にいるのか教えてあげようか?」
内緒話をするような囁きは本物の悪魔より蠱惑的だった。その瞳にあったのは獲物を狙う猛禽類の色。――惹きつけられている。そう気付いてはいてもその餌の魅力に体はいうことを聞かない。自然とその先の言葉をねだるように視線を絡ませれば、それに満足するように口を歪ませては体を離した。まるで悪魔の取引のようだ。様々な思いが錯綜するが緊張で硬直する体では言葉を発するのも難しい。多くの人々が行き交う通りの中で私と彼だけが異質だった。
「ちゃんの今の日常はシズちゃんと共にある。シズちゃんの生活リズムに合わせて寝起きをして、たまに今日みたいなイベントに鉢合わせる。でも今回矢霧製薬とのいざこざにシズちゃんって特別関与してないんだよね。あ、でも矢霧誠二君に頭突きを食らわせたとかボールペンで刺されたとかあったっけ。まったくその勢いで心臓でも一突きにしてくれればよかったのに。まあ、それでも主立って活躍していたのは帝人君と矢霧製薬、そしてあの黒バイクだった。つまり、ちゃんの立ち位置は物語からもっとも関与しない場所だったんだよね。そりゃあ俺が奴に近づきたくないっていうのもあるけど、流れを作る上で奴は防波堤のように逆らってくるからさ。そこの真後ろにいれば確かに安置かもしれないけど、ちょっとでも顔をずらしたらその分、急激な勢いで一気に飲まれてしまうことになる。それでもそれは結局俺が思い描いた流れの一つでしかないんだよね。でも求めているのはもっと予想外な展開」
――俺はこの世界の創造主に会ってみたいんだ。
始めは何を言っているのか分からなかった。男のジャケットが風にはためいてふわりと揺れる。全身を黒で統一した姿はまるで人をかたどった影そのもののようで、正面に立つ自分こそが彼の実体なのではないかと錯覚する。影は続ける。
「君はいわばこの物語の誤植だよ。しかも話の根本を覆しかねない大きなね。それはこの世界の原作を作り上げた作者に対する冒涜であり、まあ、その。なんだ。敵だと認識されて問題ないわけだよ。本来であれば俺と君がこんなところでこんな会話をしている描写なんてありえないわけだし、シズちゃんちに女の子が住んでいるなんてとんでも設定はない。この≪世界≫がただ存在するだけ、というのはありえないんだよ。この世界を認識する個人がいて、始めてその存在を認められる。そしてその個人とは誰か? ……それが君だよ。いや、君たち読者といったほうが正確か。そして読者はこの物語を読むことによってそれぞれに違う受け取り方をして、この世界……君たちにとっての作品が完成する。仮にちゃんはこの作品を読んでどんな感想を持っる? 楽しそう? 退屈そう? 俺にどんな印象を持ったかな? ただの文字の羅列が君の感受性によって悲劇にも喜劇にもなるとすれば、君が感じたそれこそがこの世界に対する歪みだよ。この歪みはいうなればレッテルみたいなもので、作品に限らず人でも物でも万物全てに存在する。つまり君は『読者』の垣根を越えてしまったんだよ。ただ物語を享受するだけの読者が物語内部に編入したら君の持つ歪みで作品自体が変容してしまう。いや、すでに歪んでいるのかな? 少なくとも俺は帝人君よりも今は君の方に興味が湧いてきているし、シズちゃんもそれなりに変化してきてるみたいだ。……これって相当やばいんじゃないかなあ? ちゃんにそのつもりはなくともそう遠くないうちに原作は崩壊するよ。きっとちゃんが知っているこの物語とはほとんど別物として終末を迎える。さて、その時作者はどうするのかな?」
全ては考えてもみないことだ。私はこの世界に対して何の力を持たない通行人Aで、たとえ物語の続きを知っていたとしても物事はすべからくして流れていくもの。主人公になり得ない存在が物語に直接関与する必要はまるでないのである。それなのに物語の要ともいえる折原臨也が揺らいでしまったとなると、これは――どうすればいいのだろうか。彼の興味は常に人間に向いているものだと思っていた。たとえ私のような特殊な存在が現れても、人間としては月並みで特別興味のそそられるような個性を持ち合わせているわけでもない。出逢ってしまったとしてもすぐ飽きられるだろうと考えていたのに、彼は私の背後にあった『もう1つの世界』の可能性に気付いてしまった。頭のいい人だから少し考えれば分かったものなのに、それすらも私は油断していたのだ。
だんだん手足が重くなっていくようで、少し気を抜けばその場に倒れてしまいそうな体をぐっとこらえる。また甘い香りが鼻をくすぐった。両頬を包み込むように添えられた手のひらは温かく、するすると首筋を伝って下りていく。このまま力を込めたら絞殺されそうな位置で手が止まり親指がそっと喉を撫でた。獲物を弄ぶ猫のような仕草に身が震えるがここから逃げ出すことも叶わないだろう。それなのに臨也の瞳は慈しむような光を宿していて、それが余計に恐ろしくて目を逸らすことも出来ない。いつのまにかうるさいほどだった街の喧騒は聞こえなくなっていた。
「俺は1つの可能性を提唱するよ。俺が考えていたあの世っていうものが存在するとしたらそれは天国とか地獄とかそんなものじゃなくて、ただの物語の途中退場でしかないということを。そして今もっとも恐れるべき自体はこの物語が終わって、俺が存在する『世界』が終了してしまうということをね」
「世界の、終了……?」
「最終話だよ。どんなに抗っても訪れる物語のおしまい。いつまでもぐだぐだと続く物語は退屈だろうけど、俺にはまだまだやりたいイベントがたくさんあるんでね。打ち切りとか強制終了とかされたら堪ったもんじゃない。でも、まあ。それでも≪こちら≫には読者様がいらっしゃるわけだから当分は大丈夫かな」
首を撫でていた手が引き抜かれる。踵を返した臨也は立ち止まって肩越しに不敵な笑みを浮かべた。
「読み続けてよ。君の歪んだ目がこの世界を映し続ける限り、物語が終わることはない」
それが君の役割だよ、と。
返ってきた喧騒の中にそう聞こえてから私は長い、長い息を吐く。空にはどこで見ても変わらない月が小さく浮かんでいた。
the end of silent
20110322
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