始まりはいつもこの路地裏だった。
故意に目指すとなるとなかなか辿りつけないこの場所はどうしてこうも運命的なのだろう。
梅雨も佳境に入ろうとしていた。地面を叩きつける雨粒が街中に水溜りを作り、灰色の空を写すそれにじわりと赤褐色が混ざって、排水溝へと流れていく。――血だまりだった。辛うじて人間だと判断できる程度に形を残した数人分の肉塊がそこに積み重なって棄てられている。雨とアスファルトの独特なにおいと備え付けのボイラーから漂う油っぽいにおい、そこに血の鉄臭さが混ざり合って異臭を醸しだしていた。喉の奥が熱い。込み上げてくるものに口元を覆うが防ぎようもなく胃酸が逆流する。傘が落ちて全身がずぶ濡れになるのも構わず、その場にうずくまった。全身が引き付けを起こしたようで上手く吐き出すこともままならない。呼吸もうまく思うようにいかなくなり、においがじわじわと眼球を刺激して涙に景色が歪むと、ふいに雨が止んだ。
「戻ってこなければそんな辛い目に合わなくて済んだのに。……ほら、噛まないでね」
目の前にしゃがんで微笑む黒い人は酷く優しい声をしていた。焦点のおぼつかない瞳で見上げると顎を掴まれて、男の長い指が口内に差しこまれる。突然の出来事に身を引こうとするが、しっかりと押さえられて抵抗することもままならない。総毛立つ嫌悪感に生理的な涙が零れる。逃げ惑う舌を絡み取られ、喉に届きそうなところで込み上がってきていたものが再び競り上がり、指を引き抜かれると今度は全てを吐き出すことができた。そっと背中を擦る男の手が温かく、徐々に落ち着きを取り戻す。
「ん。よく出来ました」
「……お、り、はら……さん……?」
「うん、そう。でもまいったな。こんなところで会うとは思ってもみなかったよ」
臨也は肩で支えていたビニール傘の柄を弄ぶように回転させて細かい飛沫を飛ばす。その後ろには相変わらず悪臭を放つ塊があったが、ちょうど傘の陰になってその全体像はぼやけてはっきりと見えない。水溜りの中に座りこんだままの私は少しでも現状を把握しようと辺りを見渡した。
この路地裏に訪れたのはおそらく本日2度目になる。1度目はほんの数分前――。
空を灰色に埋め尽くす60階通りは人通りが少なく、皆傘を差して足早に過ぎ去っていく。それなのにその数人はやけにゆっくりなペースでぴったりとの跡をつけてきていた。最初は思い違いだと思ったが、こちらが立ち止まれば立ち止まり、角を曲がれば角に入る。これほどまでに分かりやすい尾行はないだろう。傘の間からこっそり振り返ると、チーマー風の男が3人下卑た笑いを浮かべ徐々に近づいてきていた。そのことに背筋からぞくりとしたものが全身に廻り、すぐさまその場を駆け出す。背後から何か怒鳴り声が聞こえて、適当な路地に入って息の吐く間もなく突き進む。追ってくる男の1人の「静雄の女が逃げたぞ!」と大きく叫ぶ声に大きく胸が跳ねる。
――静雄さんの、おんな?
痛む肺を押さえながら必死に思考を巡らせる。だがその言葉の意味を計りかねて考えがうまくまとまらず、何の意味もなさない。
――オンナとはつまりどういうことだろう。私は性別学上女ではあるけれどただの居候の身。静雄さんとの接点もそう多くはないし、何か誤解されるようなことをした覚えは……。
そこまで考えたところで足を止める。肩で息をしながらしばらくその場で来た道を振り返ると、追手がやってくる様子がない。撒いたのだろうかと少し足を踏み出した先が、例の路地裏であった。
「言っておくけど俺が殺ったわけじゃないからね。ちょっと通りすがりの『殺し屋さん』にお願いしただけだから」
「殺し屋って……」
「どうもこういう仕事しているとそういうこわぁい職業の人たちと面識が出来ちゃうものだからね。あぁ、君なら誰のことか察することが出来るのかな?」
思い当たる人がいない、わけではない。でもこんな簡単に登場していいわけでもない。現に目の前で人が死んでいるのだ。死んでいる。殺されたのだ。少なくとも私の知る限り物語が始まってから新たな死亡者が出るはずないのに。名前も顔も知らない人々の死を目の前に突きつけられて少し息が上がってくる。水気を含んだ髪からしたたる生ぬるい雨粒が頬を撫で、ぐっしょりと濡れた服が肌に吸いついて必要以上に重く感じた。だが気付くと吐き気を催すほどの異臭は彼の放つ甘い香りに隠れて気にならなくなっていた。男の歌うような声と雨音が耳へと木霊する。
「君も気をつけなきゃだめだよ、ちゃん。この街には平和島静雄に報復しようと画策してる連中がたくさんいるんだからさ。ちゃん自身はただの居候とかにしか考えてないかもしれないけど、それって世間一般でいうところ同棲っていうんだよ。つまり君とシズちゃんは傍から見たら恋人同士のそれと同じってことなんだけど理解してくれるかな? それでその恋人とおもわれる君が1人で歩いてたらシズちゃんを憎むあいつらみたいな下世話な連中は当然のごとく君を狙うんだろうね。もちろん平和島静雄の≪弱点≫として。それはそれでシズちゃんへのいやがらせとしては十分に面白そうだけど、それで彼らが君をどうするのかとか考えるだけでもおぞましい。君は大事な大事なこの世界の≪読者様≫だ。それをあんなモノの価値も分からないやつ等に触れさせるものか。まったくシズちゃんもその辺のことも考えてほしいところだけど、あの化物にそんな知能があるとは思えないし、ここは俺がちょっと手を貸してやってもいいかなって思ってさ。はは! これでシズちゃんに貸し1つかな。いやー、楽しみだなあ。この貸しは高くつくよねえ」
「どうして。どうしてこんなことを!」
自分でも驚くほどの大声が空を引き裂いた。はっとして臨也の顔色を見ると、少し呆けてからすぐに苦笑を浮かべる。そしてゆっくりと立ち上り、地面に跪いたままの私を見下ろして言う。
「君は全ッ然分かってない。だからまあ親切な俺が特別に教えてあげよう。……彼らが死んだのは云わばちゃん、君のせいだよ?」
「な、にを……」
「君はこの世界でどう生活しようが関係ないと思っているようだけどそんなことはありえないよ。あるわけがない。なんといっても君はあの池袋の喧嘩人形、平和島静雄と一緒にいるんだから。そしてそのせいで変な噂が広がって君はこの街で十分に重要人物としてキャラクターが確立していっている。君がもっと慎重にどこかへ身を隠せば少なくとも彼らが死ぬことも、俺に目をつけられることもなかった。君は自分自身を軽んじ過ぎだよ。あんな目立つ奴の近くにいたら誰だって気付くって。ただでさえ君には不思議なオーラがあるんだから。やっぱり君は異質だよ。その存在に違和感しか感じない。そんな君がこれ以上ここにいたらこれからもっとこの世界は君の知るものと変わってくるだろうねえ。まあ、俺はそれでも一向に構わないわけだけど。それはこの世界の可能性が増えていくことと同義だからね。でもちゃんの場合はどうなの? 見たところ君はこの原作に対して特別何か変化をもたらそうとしている様子でもないし、現状を打開しようとしているようすでもない。言ってしまえば、まあ。なんだ……がっかりだ。正直、失望したよ。ただ大人しく生活するにしてもその拠点にシズちゃんを選んでしまったのは完全にミスだ。だけど、そうだな。今ならまだ打つ手はある」
「……打つ手?」
「シズちゃんの元を離れることだよ」
ただそれだけだのことだ、と言って差し伸べる臨也の手を素直に取ることが出来ない。きっと彼が言うようにしたほうがいいのだろう。現に私は本当にたくさんの人たちに迷惑を掛けてしまっている。そして今回こんなことになってしまっては無視することもできない。それなのに、いやそれでも、私は――。
「もう唇も真っ青だよ。そんなびしょ濡れでシズちゃんちに帰ったら余計な心配かけちゃうんじゃない?」
――ああそうだ。静雄さんに迷惑をかけるわけには……。
そう思うか否や。
私の手首には男の手がしっかりと握られていた。酷く冷たい指先がまるで手錠をかけられたようで私の温度を奪っていった。
ヒプノティック
20110602
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