隣の羽根布団がもそりと動く気配にぼうっと意識が浮上した。
閉じた瞼の上から感じる眩しさに朝の訪れを察するが、冬を思わせる冷気に思わず身が縮こまる。鼻の先まで布団の中に引っ込めると、再び布擦れの音と共に気配が大きく動いた。うっすら目を開くとダブルサイズの羽根布団がまるで大きな繭のようにこんもりと盛り上がっている。そこからぴんと細い腕が二本伸びて、繭から脱出しようとしている成虫のようだと思った。その成虫――はなかなか布団から出てくるようすはなく、伸びていた腕も力なく床に投げ出されている。静雄は何度か見たその奇妙な光景がなんなのか正確な答えは知らないが、おそらく低血圧によるものだろうと認識していた。毎朝食事の用意をしているは今まで埃をかぶっていた炊飯器の微かなタイマー音が目覚まし替わりらしく、ゆっくり時間をかけてその身を起こしていく。
自分が眠る硬いマットレスとは違い、が使用する羽根布団は新羅から送られた新品だ。どうしてダブルサイズなのか――その真意を汲み取ることもなくはそれに寝袋のように丸まって敷布団として併用していた。布団は違えど、隣に誰かが寝ていたということ自体静雄にはまだ夢の中の出来ごとのようで、重くなる瞼を再び閉じた。
♂♀
「朝が弱いことと、本は二段組み? のノベルズが好きとか、通販番組をよく観るとか。飯が上手いのと……あ 、朝はなんか毎回和食なんすよ」
のことは極秘にするという交換条件に、どういう女なのかと聞かれたから自分が思いつくままに答えた。正面に座る上司であるトムはへえと相槌もそこそこに食後のコーヒーに口を付ける。
「他の家事とかもやっといてくれるんで助かるんですけどね。気ぃ使わなくていいって言ってもやることないからって何かとしたがるんですよ。別に家事っていえるほど物があるわけでもないんですけど」
「至れり尽くせりでいいじゃねえか。それに彼女っていうより嫁だろ、それ」
「……だから彼女じゃなくて、居候です。なんか分かんないうちに俺が面倒みることになってて」
最初に預けるはずだった新羅に無理やり押し付けられたことを≪思い出し怒り≫する静雄に、トムは若干身を引き気味になりながら続く言葉を待つ。
「その医者がほとんど生活費出してくれてるみたいなんで別にそれはいいんすけど、だったら俺の部屋に住む必要ないんじゃないかって思うんですよ」
「今さらほっぽり出すのもちょっと可哀相なんじゃねえの? むしろ静雄のほうが世話になってるし」
ちらりと空になった弁当箱に目をやれば、静雄もそれ以上は何も言わなかった。
面倒を見る側であるはずの自分が逆に面倒を見てもらっているなんて、静雄自身は認めがたいものであったし、なんとなくそれを察したトムは爆弾を回避しようと別の話を続ける。
「見た目とかどうなの?可愛い系?美人系?」
「……顔は可愛いんだと思いますよ。あー、なんていうんですかね」
自分の言葉にしっくりこないように頭を掻く静雄は事務所内に視線を巡らせる。さして広くもない雑居ビルの一室はいつ見ても変わり映えしない、そこの小さな給湯スペースにある台所用洗剤に目を止めた。ふと自分と弟の幽が幼少の頃を思い出してそのまま口を開く。
「しゃぼん玉、ですかね」
「はあ?」
「最初の印象があんまり抜けきらないんで、ちょっと変なんですけど」
理解がついていかないトムを置き去りにして、静雄は一人納得したようにうんと頷く。最初にを見たときは満月のようにしっかりとした存在感があるのに、手を伸ばしても届かないような印象を受けた。だが今では、素朴で庶民的な面と触れれば弾けて壊れてしまいそうな不安定さを感じている。ふわふわと虹色に照る球体を想い浮かべて煙草に火をつけた。
「……しゃぼん玉っていえばよ」
「はい?」
「ガキの頃しゃぼん液を間違って飲んじゃったことあるけど、あれって口の中酷いことになるよな」
「そういえば……そうでしたね」
懐かしくも苦いあの味を思い出して、しゃぼん玉を膨らますように煙を吐いた。
なにもはじまらない
20100410
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