本を読みながら歩いていたのが悪かったのだと思う。
ライトノベルだからと甘くみていたら思わず最新刊まで読みふけってしまい、前方の注意が怠っていた。横断歩道の中間地点で肩に当たる衝撃に手にしていた文庫本を落としてしまい、慌ててしゃがみこむ。ぶつかった人に謝らなくてはと思い、振り向いた瞬間――世界が歪んだ。
立ち眩みに似た感覚にきつく目を閉じ思わず手を伸ばせば、固い壁のようなものに指先が触れた。


――どうして


ゆっくりと目を開ければ暗いコンクリートの壁に挟まれていた。


――どうしてこんなところに


まだ正常に機能していない頭で辺りを見渡しても誰もいない。どこかの路地裏らしく、上を見上げれば小さな空に満月がぽっかりと浮かんでいた。ふと視界の端に入る見慣れた建物に息を飲んだ。


――サンシャインってことは……池袋?


そう認識した途端、世界に音が帰ってきた。ざわざわ断続的な人混みの喧騒と大音量の広告それから車のエンジンに――馬の嘶き。幻聴を思わせたその響きに、私は気づいたときには走り出した。逸る思いのまま辿り着いた道路には私と同じように見物する人が何人もいる。そして、待ちかねた《都市伝説》の姿。


――セルティ!


音もなく無灯火で走り抜いた黒バイクを私は知っていた。首をなくした妖精。愛の奇跡。漆黒の首なしライダー。早鐘打つ心臓にきゅっと服の裾を掴むと、今度は遥か後方から凄まじい破壊音が地面を揺らした。喧騒はより大きくなり、集まっていた人は早足に散っていく中で少しだけ、でも確実に見えた金色の髪と地面に突き刺さった道路標識。


――もう十分。もう十分だから


痛くなる頭を抑えながら再び周囲を見渡す。大量の文庫本を抱えてバンに乗り込む男女、助手席にみえるニット帽。チラシを配る板前姿の黒人。翻る白衣の後ろ姿。青いブレザーの学生たち……


どうやら世界は私を逃がしてはくれないらしい。次々と目に入ってくるものはつい先ほどまで読んでいた物語の登場人物たち。ここは《デュラララ!!》の池袋だ。衝撃の現実に私はふらふらと初めにいた路地裏に戻る。ここに何があるわけでもないが、原点回帰は人間の本能だろう。相変わらず何もないそこで、誰か今の状況を説明できる人などいない。せめて、そう《バッカーノ!》だったらロニーさんがいる。悪魔と呼ばれる彼なら何か事情を話してくれるかもしれない。




「期待されても俺から説明できることなどそうないのだがな」
「……っ!」
「便利扱いされるのは癪だが、まあいい」




お約束の文句を言い放った彼は突如として姿を現した。スーツを見に纏った目つきの鋭い男は挿し絵として見るよりずっと人間的で、あれは似顔絵程度でしか似ていなかった。




「見た目の特徴でしか書き分けができないといいたいのか」
「そ、そんな訳ありません!」
「どうだかな。……今回の件に関しては俺は関係ない。ヒューイが関係していないとは言い切れないだろうが本人にしか分からないだろう。少なくとも《俺たち側》はこれ以上の関与はしないはずだ」




俺たち側、というのは《バッカーノ!》としての世界だろう。何にせよ曖昧な物言いしかしないロニーさんはふうと息を吐いて空を見上げる。




「全てはお前に関係ないことだ。お前がいたところは今いるところとは違ったかもしれないが、それも関係ない。ただ一つ違うのはお前はこの世界で主人公になりえない。それだけだ」
「全員が主人公の物語でも?」
「ああ。これは歪んだ愛の物語だ。そうでなければいけない」
「……私はどうしてここに?」
「そんなことに答えられる人間がどこにいる」




ロニーさんは悪魔じゃないかと口に出さずとも伝わったのか「まあいい」とポケットに手をつっこみ踵を返す。




「存在を認識する自己があるからだ」





まるでどこかの情報屋がする哲学話のような口調に一瞬恐ろしいものを感じた。
ヒューイも怖いが折原臨也も怖い。何か底知れないものを感じた私はそのまま立ち去ろうとする悪魔に声を張り上げる。




「ロニーさんはどうしてここに?」




足を止めて首だけ振り向いた影は陽炎のようにゆらめいている。




「懐かしい顔を見にきただけだ。……顔はなくしたままだったが、まあいい」




私が次の言葉を紡ぐ前にその姿は跡形もなく消えてしまった。


初めからそこには何もなかったかのように――。
結局ふりだしに戻った私はロニーさんが言った言葉を反芻する。




「関係ない、か」




果たしてそれでいいのだろうか。きっと私はロニーさんの言ったとおり、この物語の主人公になりえないのだろう。ここでの役割は通行人Aだ。カラーギャングの創始者でもないし、体から刀も出ない。喧嘩はできないし、口が上手いわけでも医術の心得あるわけでもないし、ましてや首もある。大局を動かせるだけの力はないが、物語の見えないところなら何か動けるのではないか。


大きく息を吸って1秒止めて一気に吐き出す。大丈夫、私は≪読者≫だ。冷静にこれからの段取りを考えて、今一度一歩を踏み出す。私はこのときすでに浮き足立っていた。
別に《非日常》を求めていたわけではない。ただ唯々諾々と活字を追っていただけの私がついに活字を追い越したのだ。


仕事終わりの池袋最強に声を掛けるまで、あと1時間。
二人が共同生活を始めるまで、あと2時間。
私が落としたはずの本が、いつの間にか本に私が落とされたと気付くまで、あと――














歪んだ世界の物語
20100413












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