――どちらが小説で、どちらが現実か、なんてどちらかにしかいない人間には判断できないですよ。
どきり、とした。
何気ない小説の一文がこんなにも胸に突き刺さるのは私に思い当たる節があるからだ。私はほんの少し前まで現実の世界で生きていたのに、今では小説の世界で生活している。――だけど、本当にここは小説の世界なのだろうか。
ここしばらく通っている図書館で思いつく限りの小説家の本をひたすら読み返していた。私のいた現実で読んだ本が小説の世界にも存在していて、内容も一字一句覚えているわけではないが、大まかなストーリーに間違いはない。では、『デュラララ!!』自体はどうだろうかと蔵書検索したが、結果は得られなかった。
正直怖くなっていた。私が現実で見知ったことはここでも通用していることは明らかなのに、ストーリー上に描かれていない≪今≫がどのような状態なのか判断がつかない。ダラーズの集会も、リッパーナイトも、ずっとずっと先のことで、本編が始まるまで一体何が起こるのか私には分からない。こんな中途半端で判断が付けられない現状を本当に小説の世界だといいきることができるだろうか。実は静雄さんも、セルティも、私が知らなかっただけで実在する人だったら。小説を読んでいたつもりで私は未来予知をしているとしたら。
……それこそ幻想だ。
私はこれが小説だということを知っている、そして、帰るべき現実があることも。ただ、どうしても帰りたいかと言われれば「そうでもない」というのが本心だった。特別に未練や思い入れがあるわけでもないし、それを嘆くほど現実に絶望していたわけでもない。別に私が生きる世界が≪あの場所≫でなくてもいい。ただそれだけの話。
ふっと息を吐いて本を閉じた。
≪ここ≫で関係のない本を閉じても、私が体感している世界が閉じることはないらしい。
顔を上げると読書スペースには相変わらず新聞を広げる人や、小説を読みふける人、うたた寝をする人であふれていた。何も変わらない。私もきっとその内の1人なのだろう。「関係ない」と何度も悪魔の声が頭の中を過った。本当に関係ないなら、どうして私は≪ここ≫に自身の存在を認めたの。……もちろん答えなど返ってくることはない。私にも分からないことを他の誰かが分かるわけない。分かるなら教えてほしい。
途中放棄した本と料理雑誌を抱えて、物音を立てぬようにその間を縫って本棚へ向かう。こちらはだいぶ人もまばらで、今日は来館者自体が少ないらしく、平日の昼から入り浸っている私にはどこか申し訳なく思ってしまう情景だ。
料理本の棚に雑誌を戻し、また別の本を引っ張り出す。兄弟の面倒をみていたせいもあって料理にはそれなりの自信があったが、こうして自発的にレパートリーを増やそうと思ったのは静雄さんと暮らすようになってからだ。戸籍のない私に出来ることは限られているし、圧倒的に迷惑を掛けている。何か返せるものはないかと考えたら、家事をこなすぐらいしか思いつかなかった。それに小説を読んだ限り、静雄さんの私生活というものがまるで想像できなかったというのもある。食事の描写なんて主にファーストフードかコンビニで、服は事情もあるけど毎回バーテン服。……創作上の人物なのに読みながら心配でしょうがなかったのだ。静雄さんの力に対する苦悩や、人への思い入れや距離感に感情移入していたというのもあるしれない。少なくとも私が最初に声を掛けると決めたのは、そんな情が他の人より強かったのだと思う。
次に国内作家の作品が並ぶ本棚へ向かうと更に人がいなくなっていく。私の身長を遥かに超える本棚の間を進み、折りかかったところで異変に気付いた。人がいたのだ。しかも、ちょうど私が本を戻そうとしていた場所で立ち読みをしていて、どうにも手が届かない。相手もこちらに気付いたようだったが、人の読書を邪魔してまでの用ではない。早々に踵を返すが、ふいに強い力に手首を掴まれた。冷たい感触に肩を震わせて、振り返れば立ち読みしていたその人が私を掴んでいた。黒い髪に、ファーのついたジャケットを着た、整った顔立ちの男。
どうして気付かなかったのだろう。
そんなのは簡単だ。文字列と挿絵だけでは、人を見極めることなんてできない。一度経験しているはずなのに、どういうわけか失念していたらしい。もう分かった。大丈夫。でも、もう手遅れだ。
「君がシズちゃんのカードを使ってる子、だよね」
その人は握る手を緩めることなく外面の良い笑みを浮かべた。
絶対逃さない。
私にはそう言っているようにも見えた――。
曇天
20100529
冒頭
『グラスホッパー/伊坂幸太郎』引用
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