最近どうもトムさんや社長が優しい。
いや、もともと俺みたいなのに気を掛けてくれる良い人達ではあったがのことを話すようになってからそれに拍車がかかったように甘くなった。今日だって20時には上がらせてくれるよう取り計らってくれて、ありがたいような申し訳ないようなで正直、居た堪れない。単にからかっていただけならさすがに俺もキレただろうが、そこに本心から祝福しているような温かさがあって本当に洒落にならない。温かさが心苦しい、なんて俺にとってあり得ないだろう展開が平気で起こっていた。しかも、事あるごとに否定するのが面倒になってきて、あながち悪くもないとか思ってしまっている自分がいる。……あー、だめだ。やめろ。身の程を弁えろ。そう自分に言い聞かせて帰路についた。
夕方から降りだした雨は一向に止む気配がない。大粒の滴が急遽コンビニで買ったビニール傘にばたばたと叩きつけて、冷えきった横風が顔を打つ。別段寒くはないがトムさん達の思惑通り、早く家に帰りたくなった。
異変に気付いたのは習慣になりつつある、家路から自分の部屋の窓を見上げた時だった。一面空を覆う雲のせいで今日は早くからどの家も明かりが漏れているのに、そこだけ息を潜めたように暗く静かなのが妙に気にかかる。
気付いたときには走り出していた。派手に跳ね返る水飛沫でズボンの裾が濡れるのも気にせず、水溜りを蹴り上げて玄関口へと立った。鍵を開けるのも煩わしい。半ば破壊する勢いでドアをこじ開ける。
「!」
部屋はがらんとして人の気配がない。1Kの安賃貸に隠れるような場所がそうあるわけがなく、ここに誰もいないことはすぐに知れた。
「……マジかよ」
こんなことは初めてだった。鍵が1つしかないからと一週間部屋に閉じこもったあいつが、合鍵を得たからといって長時間部屋を開けるなんて一度もない。それどころか飯やら風呂やら必要以上に世話を焼いて、どっちが面倒みてるんだか分からないぐらい気を使うあいつが勝手にいなくなるわけがない。
今朝方にが開けたカーテンはそのままになっていた。窓に叩きつける雨は勢いを増し、どんよりとした雲が一層濃くなったように思える。
――空に月が見えないのが急に不安になった。
別に今日に限ったことではなかったが、月が見えない日はどこか居心地悪くて小さなことにも過剰にイラつくことが多くなっていたように思う。そんな中でこの部屋の灯りが放つ光は、まるで月の変わりに照らしてくれているようで心のどこか安心めいたものを感じるようになっていた。と出会うまではそんなこと考えたこともなかったのに、月の有無が俺の気持ちを左右するなんてどうかしているとしか思えない。
くだらねえ、と考えを全て取り払い、再び部屋に立ちつくした。俺はがいなくなったことに相当動揺しているらしい。「やめろ、考えるな」と言い聞かせていた気持ちがますます現実味を帯びてきた。舌打ちしたくなる気分でポケットの煙草を探ると硬いものに触れた。
「そういや、新羅に持たされてたよな」
セルティと連絡を取るためにも、とに携帯電話を持たせたのを今になって思い出した。使っているところを見たことがなかったから、思いつきもしなかったというのが正しい。連絡先も最初に赤外線通信で教えあった以来見覚えがない。慌てて電話帳を検索すると1件、名前の入力がない番号が登録されていた。……間違いない。確信のままコールボタンを押すと、少しの間のあと4コール目で切れた。
不審に思い、画面を確認すると今度はこちらに電話がかかってきた。
名前の表示がない、先ほどの番号だ。
「……もしもし」
『あ、あの! 静雄さん、ですか!』
電波を通じて聞くの声は新鮮で、こんなに焦った声を聞くのも初めてだった。
『ごめんなさい! さっきはびっくりして、通話ボタンと間違えちゃいまして――』
「いや、いい。そんなことよりお前今どこだ?」
『えっと、図書館です。あの、静雄さんもう家に帰ってます? ああごめんなさい!夕飯の支度ができてないです!』
「それは気にしなくていいけどよ……」
時刻はすでに9時近かった。以前、案内した図書館の閉館時間は確か7時だったように思う。まさかと思い、口を開く。「図書館って今、外か?」
『はい……。小雨になったら強行しようかと思ったのですが借りた本もありますし、それどころじゃなくなってしまいまして』
そう言った傍から強風に煽られて雨脚が一段と強くなったような気がした。
「バカかお前……」
『あの、』
「俺も大概のバカだがお前はそれを上回る相当のバカだ! なんで自分から連絡してこねえんだよ! 今何時だと思ってんだ! ここがどこだか分かってんのかブクロだぞバカ! 何のために携帯持ってんだ! 俺でもセルティでも呼べただろうが!」
『あの、ごめんなさい……すみません……』
消え入るようなの声など聞こえていないも同然だった。むしろ、その控えめな態度が怒りを増幅させていくようで、目の前に本人がいない現状がなおさら腹立たしく思えてくる。
「いいや! 今日は言うぞ! 全部言うぞ! 大体お前は変なとこに気ぃ使いすぎなんだよ! 別に堂々とうちに居すわってりゃいいだろうが! お前がここにいるのは誰がそうさせたっつうより俺がいろって言うんだから≪ここ≫にいろバカ! 俺や新羅に迷惑かけてるとか思ってんなら今さらなんだもっと他人を頼れバカ! 今すぐ帰れ2秒で帰れ雨粒なんぞ全部避けて帰れ!」
『それは、無理――』
「やっぱいい。俺が行く。絶対そこを動くんじゃねえぞ。死ぬ気で動くな。あーいや。やっぱどこか中にいろ。図書館のガラスぶち割ってでも中にいろ。濡れたり、風邪ひくような真似したらただで済むと思うな!」
『それも、――!』
が途中何かを言いかけていたが即座に通話を切った。亀裂が入った携帯をポケットにつっこみ、再び玄関に向かう。買ったばかりの傘の柄とドアノブがそれぞれ握りやすい形状に変形したがそれどころではない。自分でも気付かなかったほどの怒りが蓄積していたらしく、電話越しでなければ確実に殴りかかっていただろう。
――これだから嫌なんだよ、と雨風で少し冷静になった頭で悪態をつき、街灯が照らす道を駆けていった。
雷が傘を差す
20100529
37日目 8時間後 >>