ここのところずっと雲行きが怪しくて、今日の昼ごろにはついに降り出してきた。梅雨に入ると野外で活動する運動部はそれぞれの部室やトレーニング室で各々のプラン通りのスケジュールを行う。野球部もその類に違わずさして筋トレや屋根のある通路での素振りがメインになる。そうなると私は狭い空間では邪魔になってなかなかスケッチに向かいづらい雰囲気があった。
雨が続くと私は道場で活動している部を見学することにしている。今のメインはなんといっても柔道部だ。野球と違って個人プレーで、それぞれの個性が強く出る。筋肉の付き方が全然違う、洗練された動作。赤く膨れ上がった耳。一瞬で終わってしまう勝負に瞬きができない。新しいジャンルに足を踏み入れたときのわくわく感は何物にも変えがたいものだと思う。
「一本!」と審判が声を上げる。平部員と主将らしき人が模擬試合をしていたらしく、構えを解いて胴着を整えた主将らしき人が顔を上げた瞬間に目があった。雨になれば連日スケッチさせてもらっている身としては正直肩身が狭くて、萎縮しながら小さくお辞儀をすると、勢いよく顔を逸らされた。……ちょっとショックだ。突然道場の隅にスケッチしてる女が現れたから警戒しているのかもしれない。今日はもう1分間スケッチをして退散することにした。1分間被写体となる人を観察して一気に描き込む。頭に記録した体の動きをトレースするように簡単な線でなぞっていってスケッチブックに起こしていく。特に私は動いているものをコマ送りにして一つずつ書くのが好きだから自然と消費する頁も増えてしまう。梅雨が明けるまでに一冊使い切ってしまいそうだ。
ふと出入り口のほうから視線を感じて顔を上げる。だけど別段誰かがいたようなことはなく、特に気にせずスケッチブックを鞄にしまってそそくさと退席した。道場から校舎までは野外に面した通路で一直線に繋がっている。雨の日のテニス部が素振りを行うのも大概がここだ。通路に出てすぐ、降り続ける雨に挟まれたその屋根の下に見慣れた背中があった。元希だ。声をかければ緩慢そうな動きで振り返るその姿が何となく機嫌悪そうな気配を漂わせている。雨で気が立っているとしてもいつもとは違う何か含みがある元希らしくない感じだ。
「こんなところで何してるの」
「傘忘れた」
「自業自得。私の傘に入れてあげるから一緒に帰ろ」
「よっしゃ」
機嫌良くニィっと笑う元希は単純でかわいいなあと思う同時に一緒に帰れるのが嬉しくて昇降口までわざとゆっくりと歩けば「遅せえんだよお前は」と腕を引かれ、大股で歩く元希の歩調に合わせる。どんどん離れていく道場を肩越しに振り返れば、やっぱり出入り口には誰もいなかった。
私が用意した傘は2人で入るのには少し小さくて、自然と距離が近くなる。それにこれから夏を迎えるというのに濡れて風邪なんて引かせたら大変だからと傘をぐっと元希に寄せれば「お前が持つと低いんだよ」とさっと左手に奪われてしまった。大事な利き腕を内側にしていれば濡れなくて済むけど、ずっと持っていたら疲れちゃうんじゃないかと懸念したが「んなことぐらいで疲れるわけねえだろが」と傘の柄で頭をぐりぐりして押さえつけられた。
「いやいやいや。元希、右肩めっちゃ濡れてる」
「お前だって大差ねえだろうが」
「私は荷物さえ守れれば濡れてもいいもん」
ぎゅっとスケッチブックの入った鞄を抱える。他の部活用に作ったスケッチブックはこれで6冊目だ。雨が降ればこれからもどんどん増えていくと思う。これは柔道部と剣道部を集めた1冊になる予定で残りの頁はずっと柔道部で埋まる。新しいスケッチブックを迎えるのが楽しみで、次はどこの部を見に行こうか今から楽しみにしていた。ふいに元希を見上げるとまた含みのある違和感があった。いつも自分の感情に正直な元希が何かを我慢しているようなそんな気がした。目の前の雨を睨みつけたまま、苛立ちを帯びた声を出す。
「誰書いてたんだよ」
「柔道部の人。たぶん主将なんじゃないかな。よく耳が腫れていて思わず描き込んじゃうよね」
「……は昔っから怪我してる奴とか書くの好きだったよな」
「別に怪我が好きなわけじゃないってば。努力している証?っていうのかな。そういうのが視覚的に見えるところを残しておきたいと思うから、すきなの」
思わず熱く語ってしまうと突然元希の足が止まった。不審に思って見上げても顔は正面を向いたままで何も言わない。名前を呼べば眉間の皺を深めるだけで今日はなぜだか沈黙が痛い。2人でいることには十分慣れているし、こうして肩を並べて帰ることだって何も珍しいことはない。以前一緒に帰ったときにはこんなふうになったっけ? 考えてみてもお互い決して大人しい性格ではないから何かとぎゃーぎゃー言い合いながら家まで歩いていた気がする。なのに今日は何がおかしいんだ。この距離? 元希の態度? それとも私?
何度呼びかけたか分からなくなった頃ようやく顔をこちらに向けてくれた。じっと見つめる切れ長の目は微動だにしなくて、見つめられた私はその視線をどうしてか外すことができない。だんだんと心臓が早鐘打ち、顔に熱が溜まっていく。
「元――」
「早く止まねえかな」
はっとしたときにはすでに歩き出していて、また元希の隣を歩く。元希が何事もなかったように「帰ったらソッコー風呂だな」とか「お前水溜りに足つっこんでんぞ」とか余計なことばかりいうからさっきまでの微妙なひとときについて尋ねる隙がなくなってしまった。
またいつものように幼馴染の会話を始める私たちに、何の変調はなかった。
露草色サイケデリック
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20091221
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